禅とFFS

禅とFFS (第1回)

2016.04.27

自分とは何か?

古野:対談のテーマは「FFS理論と禅」です。なぜこんなことをやろうと思ったかというと、当社は人の関係性を扱う会社です。「生きる」ことに世の中が鈍感になり、「人間関係」が希薄になっていく時代に、私たちは「人」や「関係」について伝えていく責任があります。一方で、FFS理論の開発者・提唱者である小林博士は、臨済宗の総本山の一つの寺に跡取りとして生まれ、修行もされた禅僧です。そこで、科学者であり禅僧でもある小林博士と、禅とFFSをテーマに対談してみたいと思ったのです。人の関係性や「生きる」ことを考えるうえで、FFS理論が鍵になるのはもちろん、禅にもその答えがあるのではと思います。

まず小林博士に問いたいのは、「自分の存在とは何か」ということです。私自身、禅の本を読むうちに、自分って何だろう、生きるとはどういうことだろう、と考えるようになりました。人はみな様々な関係において、様々な役割や立場、人柄などをまとっています。会社では部長や課長、自宅に帰れば父親だったり子供だったり、友人との間では幹事役、面白い奴とか…。ただ、関係の中で自分の役回りが変わることはあっても、自分という存在は不変だと思っています。では「本当の自分」って何なんでしょうか。また、その自分にどうやって向き合っていけばいいのでしょうか。

小林:古野君は“自分探し”をしているようですね。「自分とは何だろう」と思った時に、もうそれは「自分」なんです。

まず明らかにしておきたいのは、欧米と日本では、「自分」の捉え方が違います。「自分」という言葉を「自」と「分」に分解してみると、「自」には「みずから」と「おのずから」という二つの意味があります。また、「分」は「分けている」と「分かれている」の意味を含有しています。「みずから、分けている」という組み合わせから成る自分が、欧米流に言う「アイデンティティ」、つまり「自我」です。欧米では「しっかり自我を持て、アイデンティティを確立しろ」と言いますよね。「自分探し」と言う時の「自分」も、この「自我」のことなんです。

しかし、日本では違います。日本で言う「自分」とは、「おのずから、分かれている」という意味。おのずから、しかるべくしてあるから、人工的なものではない。自然なものです。これがつまり「自己」です。

そう考えると、マズローの言葉を「自己実現」と訳したのは間違いだと分かりますね。承認の先にあるのは、「自我実現」です。そもそも「自己」はすでに「そこにある」ものだから、実現するものではありあません。例えば風呂の中では、社長だろうと研究者だろうと坊主だろうと、およそ関係ありません。生まれた時は素っ裸なのに、生きていくうちに属性を垢のようにまとって、「自我」で固まっていく。生まれてこのかた自己に属性を被せて、「自我」という妄想を作り上げているんです。

そこで禅とは何かと考えると、「漠妄想」です。妄想することなかれ。つまり禅は、「超現実主義の哲学」と捉えることができると思います。

自己と共生思想

古野:自己が「おのずから、分かれている」のであれば、「我思う、故に我あり」の我ではなく、「思わない」のが自己なんですね。では、「思わないけれど、そこにある」ことを、自分ではどう感じればいいのでしょうか。

小林:(古野さんの後に立って)僕のこと、見える?

古野:いや、見えません。

小林:存在としては、ある?

古野:あるとも言えないし、ないとも言えません。

小林:そう、あるともないとも言えない。つまり自己は、万物と自分が分かれていない状態なのです。あるかないか、ということではありません。古野君以外の人から見れば、僕のことは見えるから「ある」と言える。だから、自己と万物は「不可同(同じではない)」。ただ、同じではないけれど、分けることはできない。これが「不可分」ということです。

言い方を変えれば、「色即是空、空即是色」ということになります。「色」とは「ある」ということ。「見える」ことから「色」という言葉を使っています。一方で「空」は、「見えない」「空っぽ」という意味。ただし、「空」は「空っぽ」ではない。

これは一元論の考え方が根底にあります。「万法一に帰す」という言葉がありますが、138億年前、水素とヘリウムが分離する前、天地万物すべての根本は一つでした。この考えにもとづけば、「私は70億人の人間の一部ではある。しかし、70億人で一つの命である」と捉えることもできます。つまり、「すべてが一部であると同時に、一部がすべてである」。この考えに行き着いた時に、「共生」という思想が生まれます。

クリスチャンの考え方は違います。神を信じる者は救われるけれども、信じないものは救われない。こうした二項対立のまま対立を深めていくのが、二元論の考え方です。

嫌いな相手に対して、どう向き合うのか

古野:禅では「縁起」という考え方があります。自己はおのずからあるものですから、自分があるかないかはわからない。しかし、自分と自分ではない誰かとのご縁があって、その関係性のなかで自己の存在が見えてくる、と言いますね。

小林:その通りです。ただし、「縁」という言葉は誤解されやすく、原因と結果を分けて考える二元論で捉えられる傾向があります。原因と結果は不可分不可同だというのが禅での捉え方です。因果とは、正しくは「因縁果」のことで、生じた結果は次の結果の原因となり、この連鎖が永遠に続いていく。結果は永遠に出ません。したがって禅では、縁に従ってひたすら生きていこうとするのです。

ここでも根底にあるのは、「自他一如」の考え方です。自分というものは単独で存在するのではなく、自分と他人を切り離すことはできません。自分は全体のなかの一部であり、関係性のなかで変化し続ける「無我」の存在だということです。

古野:しかし、現実ではなかなかそうはいきません。自我を持った人間には、好きな相手もいれば、嫌いな相手もいます。好きな相手のことは受け入れられますが、嫌いな相手とは関わりたくないと思うのが心情です。それでは、せっかくのご縁があっても、縁を生かすことが難しくなります。禅で言うところの「縁」に従って生きるのであれば、好きや嫌いといった感情も持つべきではないのでしょうか。

小林:嫌いと思わないでおこう、と思うのも「我」です。だから、沸き起こる思いはあっていい。ただし、こだわらない、囚われない、偏らないことが大事。つまり、自分の思いに執着しないことです。例えば、静岡県の三島を歩いていると、ウナギの匂いがするでしょう。「いい匂いだな、食べたいな」と思う。だけど、そこを通り過ぎたら、その思いを忘れることです。「いい匂いだな」という思いを受け取ったうえで、「食べたいな」という思いに囚われないこと。

人間に対しても同じです。「嫌な奴だ」と思ったとしても、ずっと相手が嫌な奴でい続けるわけではありません。嫌だと思うのは、嫌になる原因が過去にあったからです。その事実は確定していますが、一方で明日はどうなるか分かりません。明日を変える鍵になるのが、「今日」なんです。昨日と明日をつなぐ縁が「今日」だと考えれば、今日をどう過ごすかどうかで明日は変わります。嫌だという思いを今日手放してしまえば、明日はもう嫌ではなくなります。

「縁」を生かすためのFFS理論

小林:好きか嫌いかという二項対立を捨てるには、無我になる必要があります。自我が消えるまで座禅することが最良の方法ですが、これに大体10年くらいはかかります。

古野:座禅するしか方法はないのでしょうか。

小林:そこで、テクニックとしてのFFS理論があるわけです。自分から自我を取り除いたものが、自己であるなら、本質的に「自己」はみな一緒。だけど現実には、誰もが「自我」という服を着てこの社会を生きています。そうであれば、この「洋服を着た状態」を「個性」として認めようというのがFFS理論です。

人はみな、本質は一緒でも、個性は一人一人違います。違うから対立するのではなく、異なる個性をうまく組み合わせることで、いい結果を生み出したり、生産性を高めることができます。自分のことを否定的に思ったり、過信したりせずに、自分が自然に活かされた状態でしかいい結果は出ません。異なる個性を認め、自分を活かせるよう組み合わせることが、座禅する以外で縁を活かすための唯一の方法だと考えます。

zenandffs

株式会社ヒューマンロジック研究所 代表取締役

古野 俊幸(ふるの・としゆき)

関西大学経済学部卒。
新聞社、フリーのジャーナリストなどを経て、1994年、FFS理論を活用した最適組織編成・開発支援のコンサルティング会社・CDIヒューマンロジックを設立。
CDIヒューマンロジックのホールディングカンパニーとして、1997年に株式会社イン タービジョンを設立し取締役に就任。2004年4月からインタービジョンの代表取締役に就任。その後、社名変更を経て、現職。
現在まで約600社以上の組織・人材の活性化支援をおこなっている。チーム分析及びチーム編成に携わったのは,40万人、約60,000チームであり、チームビルディング、チーム編成の第一人者である。

A 16  B 9  C 14  D 17  E 3 / DAC

使命感、決断力をもって、有事に変革を推し進めることを得意とする。組織先導型。

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